十二単と束帯

十二単とは....

◆ 唐様の装束から和様の装束へ
日本の宮廷装束は、7世紀初頭の推古天皇時代に、聖徳太子が中国大陸の隋王朝と交流してその服制を取り入れ、冠や服の色によって身分の高下を明らかにしたことに始まります。そして、8世紀にはいるとすぐに、律令によって宮廷における服装の規程が明文化されました。しかし、当時の日本の宮廷装束は、隋やこれに続く唐という先進国の文明文化を取り入れていた結果として、大陸の服装そのものの「唐様(からよう)」といわれる様式でした。
やがて9世紀、日本が平安時代に入って100年ほど経ったころになると、中国では唐王朝が末期を迎えて国力が衰えました。このことから寛平6年(894)に遣唐使が中止されて、中国との正式な国交はとだえることとなります。そしてさらに100年ほど後の平安中期、藤原氏の全盛時代になると、国風化した公家の文化は爛熟の頂点に達し、平安時代後期にかけて雅びで豪華な絹の宮廷服の完成を見ました。すなわち、「和様(わよう)」と呼ばれる様式が生まれて、儀式服としての「束帯(そくたい)」や「唐衣裳(からぎぬ も)」(後のいわゆる「十二単(じゅうにひとえ)」のこと)をはじめ、日常着としても各種の装束が考案されたのです。

◆ 形態・寸法の変化と重ね色目の発達
装束の形態が唐様(中国風)から和様(和風)に変化した結果、装束の形・大きさや着付けにも大きな変化が現れ、日本の宮廷装束の特徴がはっきりしてきます。
装束が和風化するにつれて、袖巾や身頃は次第に大きくなってゆきました。大陸に比べて高温多湿な島国である日本の気候に適した装束としては、湿気を逃すために袖や身頃が広くなるのは当然のことといえます。また、当時流行した浄土思想の影響から、貴族たちが豊艶な曲線の美を好んだこともあるでしょう。それに、平安時代の摂関政治のころに宮廷における儀式が立礼(りゅうれい)から坐礼(ざれい)に変更されたことから、坐ったままでも威厳を持たせるために、それまでは身巾の狭かった衣服が、ゆったりとした袖や身頃を要求されるようになったとも考えられます。
さらに、「寝殿造(しんでんづく)り」と呼ばれる当時の貴族の館は冬の寒さが厳しく、そのため多くの衣(きぬ)を重ねる形式が発達しました。そうしてこの形式が、衣の色をさまざまに組み合わせることによって季節感を象徴的に表現するという独特の様式、すなわち「重ね色目(襲(かさね)色目)」を生み出すこととなったのです。このような色合わせの組の総数はおよそ60にも及び、季節や祝いなど時と場に応じて細心に選択されました。

◆ 柔装束から強装束へ …… 衣紋道の起こり
12世紀後半、平安末期の平家台頭のころから、宮廷装束はもうひとつの大きな変化を見せます。武家の力の強まりが装束の形式の上にも現れ、また大陸の宋より伝来した唐錦(からにしき)・唐綾(からあや)などの厚手の織物からも強い影響を受けた結果、宮廷装束は、糊や漆で固めたり肩当・腰当を利用したりして、直線的に固く大きく見せるようになったのです。こうした変化を表して、この時代以降の装束は「強装束(こわしょうぞく)」と呼ばれることがあり、これと区別するために、それ以前の時代の装束を「柔装束(なえしょうぞく)」と呼ぶこともあります。
強装束の着装には、前代にはなかった技術が必要となります。同時に、装束やそれを着用する場面の多様化にともなって、古来のしきたりも整理されてゆきました。このような、装束に関する有職故実(ゆうそくこじつ)の集大成が「衣紋道(えもんどう)」です。衣紋の創始者は後三條天皇の孫で「花園の左大臣(ひだりのおとど)」と呼ばれた 源 有仁(みなもとのありひと)であるといわれており、その後、藤原氏の大炊御門(おおいのみかど)・徳大寺の両家の手を経て、鎌倉時代に同じく藤原氏の髙倉・山科(やましな)の両家に伝えられ、現代の着装法も衣紋道に則っていますから、平安末期以来の800年に及ぶ伝統を踏襲していることになります。

◆ 伝統の継承
その後、相次ぐ戦乱と公家の経済的逼迫とがあいまって、宮廷装束の伝統も一時は風前のともしび同様になります。しかし江戸時代(17~19世紀)に入ると国内も安定し、19世紀の天保年間には復古調が盛んになって、平安時代の伝統が装束にもおおむねよみがえることとなりました。
近年の宮中の儀式には洋装化されているものも数多くありますが、その一方で、古来の伝統儀式は、現在も平安時代以来の「束帯(そくたい)」「唐衣裳(からぎぬ も)」「御引直衣(おひきのうし)」「小袿(こうちき)」などの装束によって執り行われています。最近では1991年の秋篠宮殿下の御成婚・今上陛下の御即位礼や1992年の皇太子殿下の立太子礼などがこれらの宮廷服で厳かに執り行われ、テレビを通じて世界にも紹介されました。
それだけでなく、各地の大きな神社仏閣を中心として、伝統的な儀式ではやはり古来の装束が活躍しています。また冠婚葬祭で伝統的な装束を身に着ける人々も増えているようです。
宮廷装束の世界は、千年あまりの時の流れを通じて日本の国家・民間の行事や日常生活とともに歩み、現代にあっても日本文化の継承してきた伝統の美を体現しているといえましょう。

◇ 裳着の儀 …… 女性の成人式(1)
『源氏物語』をひもとくと、第1巻「桐壺」の後半に光源氏と葵の上の婚礼のことがあります。このとき、葵の上は16歳、光源氏は12歳の設定です。(ただしこれは数え年のことですから、満年齢では葵の上が14~15歳、光源氏に至っては10~11歳ということになります。)当時の習慣として、家柄が高貴であればあるほど、人生の通過儀礼は早めに行われていたのでした。
さて、このカップルは子どものまま結婚してしまったのでしょうか。実は、当時の成人式には「婚礼のできる年齢に達したことを社会的に示す」という意味合いがありました。したがって、高い家柄の子弟は、十代の前半で「成人式」と「結婚式」とを連続して行うことも多かったのです。
成人式では、装束を子どものものから大人のものに変えることで、その人が成人に達したことを示します。その中でも目立つのが、男性ではそれまで何もかぶっていなかった頭に「冠」( かんむり )を初めて着けることであり、女性の場合はそれまで振り分けて垂らしていた髪を結い上げることでした。そこで、男性の成人式は「加冠(かかん)」あるいは「初冠」( ういこうぶり )、女性の成人式は「髪上(かみあげ)」と呼ばれました。

◇ 裳着の儀 …… 女性の成人式(2)
 『源氏物語』よりももう少し古い、平安前期の『竹取物語』には、かぐや姫が美しく成長したとき、「よき程なる人になりぬれば、髪上などさうして髪上させ裳着(き)す」とあり、竹取の翁の計らいでかぐや姫の髪を結い上げて裳を着ける成人式を行っています。またやはり平安前期に成ったと言われる『伊勢物語』の和歌「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき」にも、当時の習慣が伺われます。振り分け髪は子どもの髪型で、「あなたに嫁ぐためでなくては私は髪を結い上げて成人するつもりにはなれません」と言っているわけですね。平安中期には、成人した女性もふだんは髪を結わずに垂らす「垂髪(すべらかし)」のかたちでいることになりますが、盛儀に際しては額の上に髪を結って、そこに「釵子(さいし)」という髪飾りを着けたものでした。
また、先に挙げた『竹取物語』の「裳着(き)す」という表現にも注目してください。女性の成人に際しては、腰から後ろに長く引く「裳(も)」を身に着けることも、子どもの姿から大人の姿への大きな変化です。そこで、女性の成人式は「裳着(もぎ)」あるいは「着裳(ちゃくも)」と呼ばれることもありました。

◇ 唐衣裳装束 …… 十二単(1)
宮廷女性の正装は、今では一般に「十二単(じゅうにひとえ)」という名前で通っていますが、これは実は本来の名称ではありません。この装束の形がほぼ現在見られるようなものになったのは、清少納言や紫式部の活躍した平安時代の中ごろのことですが、そのころには「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」、あるいは単に「装束」などと呼ばれていました。また、そのころから現在まで伝統的に使われている名称としては、その構成に由来する「唐衣(からぎぬ) 裳(も)」あるいは「五衣(いつつぎぬ) 唐衣(からぎぬ) 裳(も)」という名があります。
「十二単」という言葉は、文献の上では『平家物語』(延慶本)や『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』に見られるのが最初のようです。壇ノ浦における建礼門院の装束についての記述です。これは実は「唐衣 裳」とは異なる装束を指していたのですが、「十二単」という言葉は後には宮廷の女性の服装を代表するもののように広く使われるようになってゆき、江戸時代ごろになると、宮廷の人々も「唐衣 裳」の装束のことをふだんは「十二単」と言うようにもなりました。
髪型は、「大垂髪(おおすべらかし)」という、左右に大きくふくらんだ形に結います。この髪型は江戸時代の中ごろに民間で流行した灯籠鬢(とうろうびん)という髪型の影響を受けて、江戸時代も末期にできたものです。一般には「おすべらかし」と言われることが多いようですが、衣紋道での正式な名まえとしては「おおすべらかし」と呼び、また簡単に「お大(だい)」と呼んだりもします。

◇ 唐衣裳装束 …… 十二単(2)
 さて、この装束は、下着としての「小袖(こそで)・長袴(ながばかま)」の上に「単(ひとえ)」、「五衣(いつつぎぬ)」、「打衣(うちぎぬ)」と衣(きぬ)を重ねてゆき、「表着(うわぎ)」を着た上に腰までの「唐衣(からぎぬ)」をはおって、後ろ腰には「裳(も)」を引きます。また額に「釵子(さいし)」を飾り、手には「檜扇(ひおうぎ)」を持ちます。
「長袴(ながばかま)」は、張りがあるほうがはきやすいので、経(たて)(縦糸)よりも緯(ぬき)(横糸)を太くした「精好(せいごう)」という生地をよく使います。
「単(ひとえ)」は、もともとは肌着として身に着けていたものですが、「小袖」が肌着として用いられるようになったために、装束の一構成要素となりました。
「五衣(いつつぎぬ)」は、5枚重ねの「袿(うちき)」です。古くは枚数が決まっていたわけではなかったのですが、平安時代の中ごろから後期にかけて5枚が標準となりました。「重ね色目」という言葉にはいくつかの用法がありますが、ふつうは単と五衣の色の組み合わせを言います。
「打衣(うちぎぬ)」は、もともとは砧(きぬた)で打った衣なのでこの名があります。
「表着(うわぎ)」は、これまで重ねてきた衣のもっとも上に着るものという意味で「うわぎ」と呼びます。一般に、他の衣よりも豪華な織物が使われることが多いものです。

◇ 唐衣裳装束 …… 十二単(3)
「唐衣(からぎぬ)」は、「中国風の着物」という意味です。これは、宮廷の女性の装束のなかで「正装の印」として身に着けるものです。この「唐衣」には、「禁色(きんじき)」の決まりがありました。これは、勅許(ちょっきょ)すなわち天皇の許しがなければ身に着けてはならないという服飾上の禁制をいいます。漢字は「禁色」と書きますが、実際には「色目」だけでなく「文様」や「織り組織」にもわたる決まりです。
「裳(も)」は、「成人の証し」として身に着けます。もともとは腰に二重に着けた巻きスカート形式のものでしたが、平安時代になると後ろに寄せるようになりました。十二単の装束の腰は、最終的には裳についている紐一本だけで留まっています。また、裳にも「禁色」のきまりがあり、後ろに引く裂(きれ)に型刷りの文様をつけることがそれです。
「釵子(さいし)」は、「平額(ひらびたい)・櫛(くし)・簪(かんざし)」などの総称です。正装のときにつける髪飾りで、洋装のティアラに相当するものといえましょう。
「檜扇(ひおうぎ)」は、往時の女性のたしなみとして顔を隠すために持ちました。そのため男性の檜扇よりも大振りで、美しい彩色描画を施し、飾りの花や糸などもついています。

◇ 汗衫装束 …… 童女の晴装束
「汗衫(かざみ)」とは成人女性の十二単に相当する童女の晴れの装束で、成人式に臨む女性が十二単に着替える前に子どもの装束として着ることがあったものです。他には宮中に仕える「女(め)の童(わらわ)」たちが殿上の正装として着用するのも、この装束の代表的な用法といえるでしょう。
この装束では、「単(ひとえ)」のうえに、子ども用に小さく仕立てた「袙(あこめ)」を数枚重ね、その上に「袍(ほう)」を着ます(「袍」はふだんは「うえのきぬ」と呼ばれることも多いものでした)。
十二単で裳を後ろに長く引くのに似て、汗衫の袍も丈を非常に長く仕立て、美しい模様を描いたりもします。袍の腰を留めるのには、「当腰(あてごし)」という共布の帯を使ったり、男性の束帯装束に用いられるような「石帯(せきたい)」という飾りのついた革帯を使ったりしました。袍の襟には、丸い詰め襟の「盤領(まるくび)」と、現在の着物のように襟が縦についた「方領(たりくび)」のふたつの形式があります。
また袴は「長袴(ながばかま)」の上に「表袴」( うえのはかま )を重ねますが、このように短い袴の裾から下にはいた袴の裾が長く引かれる形式は、他の装束には見られない特徴です。
手には、かわいらしい飾りの付いた「袙扇」( あこめおうぎ )を持ちます。

 

小袖と長袴の上から単を着けました。
※・・十二単の重なりをお楽しみください。

<単>
小袖と長袴の上から単を着けました。

<五衣(いつつぎぬ)・五の衣>
単の上に五の衣を着けたところです。

<五衣(いつつぎぬ)・四の衣>
四の衣を着けたところです。

<五衣(いつつぎぬ)・三の衣>
三の衣を着けたところです。

<五衣(いつつぎぬ)・二の衣>
二の衣を着けたところです。

<五衣(いつつぎぬ)・一の衣>
五衣(いつつぎぬ)を全て着けました。

<打衣(うちぎぬ)>
五衣(いつつぎぬ)の襟を合わせます。

<打衣(うちぎぬ)>
五衣(いつつぎぬ)の上に打衣を着けます。

<表着(うわぎ)>
打衣の上に豪華な表着を着けます。

<唐衣(からぎぬ)と裳(も)>
上半身に、腰までの唐衣を重ね、続けて下半身・後腰に裳を着けます。十二単の正式な名称は「五衣・唐衣・裳の装束」といいます。

 

関連書籍

十二単について詳しい解説は、下記の書物にございます。
よろしかったらぜひ御覧ください。

『十二単のはなし …… 現代の皇室の装い』
仙石宗久著
B5判・カラー・263ページ
税込価格 4,088円
ISBN4-89231-021-2
オクターブ

副題には「現代の~」とありますが、内容は古代から日本の装束の歴史を説きおこし、各種宮廷装束の着装法まで豊富な写真と図解で説明する、装束の世界の解説書です。
初心者から専門家まで、各方面で高い評価をいただいています。
【内容紹介】
●十二単の理解のために
●皇后陛下の十二単・皇太子妃雅子殿下の十二単・秋篠宮妃紀子殿下の十二単・紀宮清子内親王殿下の十二単・高円宮妃久子殿下の十二単・貞明皇后の十二単・かぐや姫のファッション・清少納言の十二単・紫式部の十二単・皇后陛下の御小褂
●十二単の着け方
●束帯の理解のために
●天皇陛下の御束帯・皇太子殿下の束帯・秋篠宮文仁親王殿下の夏の束帯・高円宮憲仁親王殿下の冬の束帯・衣冠と直衣
●高倉流 束帯縫腋袍の着け方
●日本の宮廷服と衣紋道
●成人式・七五三のルーツ/扇のはなし・かぶりものの話/装束の理解のために ……染・織・文様・色目のこと/ほか

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