曲水の宴(ごくすいのえん)

森田曠平『曲水の宴』1970年 (C)山種美術館名品図録
 古代に禁中で行われた行事です。ふつうは「ごくすいのえん」と読んでいますが「きょくすいのえん」とも言います。また一名を「流觴曲水〔りゅうしょうきょくすい〕」などとも言いました。
 この宴は、庭園を曲がりくねって流れる水のほとりに坐り、水にお酒の盃を浮かべ、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を詠むというものです。詩歌と音楽が一体となった、春の一日を優雅に過ごす娯楽行事です。
 陰暦の3月はじめといえば現在の4月の上旬から中旬ごろにあたり、ちょうど桜の花の時期でもありますから、平安時代には花見の宴を兼ねることもあったようですが、本来は、わが国の民間の流水に関する風俗が、中国から渡来した「上巳」の行事の影響を受けて洗練され、宮中に入ったもののようです。
 わが国での曲水の宴の起源としては、『日本書紀』によれば、顕宗帝元年〜3年(485-487)の3月上巳の日に後苑にて曲水宴が行われたというのが、大陸から伝わった年中行事として記録に残る最も古いものとされ、後の聖徳太子もこれを行ったといいます。また、『万葉集』十九には天平勝宝2年(750)3月3日の大伴家持のやしきで行われた曲水の宴の歌があり、早くから私的な開催もあったことがわかります。
 平安朝にはいると場所を内裏に移し、清涼殿〔せいりょうでん〕の御溝水〔みかわみず〕に盃を流すこととなります。『西宮記』(源高明)によれば、このころまでにはすでに音楽を演奏することもあったようです。その後、桓武天皇の皇子だった平城帝の時代には一時廃されましたが、非公式にはたびたび催されたらしく、その次の嵯峨帝によって再び復活されたのち、村上帝のころには盛んに行われました。やがて摂関時代に入ると公家のやしきでも盛大に催されるようになります。
 曲水の宴は、武士の世である鎌倉時代にはいったん中絶してしまいますが、江戸時代以降になると私的に試みる人も往々あるようになり、岡山後楽園や大谷派本願寺などでのものが知られています。
 現在では珍しい行事となっていますが、福岡の太宰府天満宮のものは有名です。